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風刺・批評の精神はどこへ?

 先日、新聞を読んでいたら歴史作家の保阪正康氏(←歴史探偵と自称している)が風刺・批評に関して寄稿していた。要約すると、最近のマスコミは風刺・批評の精神がなくなり、国民もその手段としてマスコミを信じておらずその有用性も失われつつあると指摘していた。その昔、民が官が行う行為に対して、痛烈な風刺を込めた立札を立てたり、表には出ない文書を書き残していた事実を紹介する。

 世相を風刺・批評した有名なものに、室町時代初期の建武新政府の混乱ぶりを伝える「二条河原の落書」がある。少し紹介する。「最近都で見るものを思いつくまま挙げてみる。人の寝こみを襲う者。強盗を働く者。天皇の偽の命令書。・・・・・(略)急に羽振りのよくなる奴。落ちぶれて路頭に迷う奴。所領の保証やご褒美のために戦功をでっちあげ、訴訟で所領を取り戻すため出てくる田舎者。・・・・(

略)おべんちゃら悪口の才能だけはある奴。コネを持っている奴。ぽっと出てきた馬の骨。能力なんか確かめず、それはみんなお役人。・・・・」(口語訳)

 これを現代風に例えると、人の寝こみを襲う者、強盗を働く者に時代の差はない。天皇の偽の命令書に至っては、お上の意向を怪しげに記したはがきを送りつける〝〇〇詐欺〟と似る。急に羽振りがよくなったといえば、どこかの金髪IТ社長ら。ホームレスを地方都市の駅舎周辺でも見かけるように。・・・・(略)口先だけで人の悪口を並べる才能の持ち主。コネに至ったては何を言うか。能力もないくせにお役人というだけで・・・・。

 室町時代も現代も人の生き方につき、さほどの優劣はない。前述した保阪氏は混沌として社会正義が通用しない現状はマズイのではないか?という指摘をする。この現状を指摘して、官が行う不誠実な行政行為や政治家(屋?)が漫然と議論する国会活動等々を風刺・批評するのが、新聞を含めたマスコミの使命(義務)ではないか?と。

 真面目に働く者が報われない社会とは?なぜ、建武の親政は失敗したのか?社会の流動性がもたらしたといえばそれまでだが、この二条河原の落書の著者は、建武の親政で活躍した官僚なのである。この官僚が政権批判をしているように受け止められているが、実は社会の混乱ぶりを冷徹な目で観察し、かつ文化・風俗・民衆の息遣いを乾いたタッチで書き連ねる。現代の官僚は平然と国会で偽証と思えるような答弁を繰り返し、多額の退職金を得て天下りする。責任を部下に押し付け、良心の呵責に耐えかねた部下が自殺しても真相を明らかにしない。逆に落書の著者である政権官僚は自ら記者になり、時代を見据えた落書を書いて後世に伝えたことになる。

 翻って、昨今のマスコミ(特に新聞)はどうなっているのか?紙面を開いてオッと思わせる記事に出くわす機会が少ない。もちろん、全国紙・地方紙の役割はやや違う。先ほどから述べているように、反骨精神の矜持があるなら、堂々と風刺・批評をしたらどうか?営業サイドに忖度する必要があるのか?かつて編集側を覆っていた(伝統の?)〝編集権は侵されない〟は、もう過去の遺物か?

 ネタの大小・優劣を細かく論じるつもりはない。地方紙は地方紙なりに風刺・批評の論点はあるはずだ。記者時代、長野に出張して現地で地方紙を購入して読んでみたら、内政・国際・経済・スポーツ面の構成がほぼ鹿児島の地方紙と変わらない。金太郎飴だ。当然、通信社任せなのだが、もっと幅のある紙面づくりをすべきなのに、通信社は通信社でこの記事を使ってほしいな~んてクレジットを打つので、上記したような現象が毎朝、全国の地方紙で起きるのである。もちろん、全国の地方紙をそれぞれ取る読者が知る由もない。

 横道にそれた。話を風刺・批評の論点に戻す。私はこう思う。現在の地方紙は【地忘紙】と思っている。その理由の要因は複雑だが、その一端を挙げよう。この体験は今でも忘れない。弱小地方紙(いろんな意味で)の駆け出し&新人記者だった私は、鹿児島8・6水害(すいません・割愛)後の石橋撤去問題を担当していた。

 保存か?撤去か?賛成派・反対派にさまざまな分野の人々が入り交じり、鹿児島県政始まって以来の大論争に発展。30数万部を誇るM新聞は明確に保存を社説で張り、私のいた弱小・S社(現在・廃刊)は石橋を撤去して都市整備を図るべきだと論陣をかました。S社は完全に行政寄りなのである(その理由は後述する)。明確な撤去賛成を社説等でその姿勢を示したのはS社のみ。他の全国紙・ブロック紙はやや保存派?だった。撤去されるまでの流れは省くが、全社が賛成派・反対派の動きを逐一報道していた。

 撤去期限まで残り1カ月に迫った日の夕刻、担当デスクから「オイ、岩崎。今夜7時から〇〇で保存派が集会するから取材頼む。2社面でいいから30行から35行。写真なしで」。集会場所では、撤去反対派のメンバーが受付をしていて、取材記者にも名刺の提示を求めていた。「S社の岩崎です。取材をお願いします」と名刺を差し出すと、30代と思われる受付の女性が「あぁ、S社ね。取材はお断り。だって、撤去に賛成でしょ。取材を受ける理由がないから」と取り付く島もない。

 結局、全国紙M社の知り合いの記者が間を取り持ち、取材はできたが記事にはならなかった。なぜか?取材後、帰社してその経緯を担当デスク(部長)に報告すると、「保存派(石橋)はそんな態度をするのか!!失礼だな。なら、ボツでいい」。私がいろんな意味で弱小と書いた理由はここにある。( ´艸`) 新聞社として度量が狭い。

  後日、受付女性の素性が分かった。現在も地元でよくマスコミに出ている鹿児島大学の教授の妻だった。確か、その当時は講師だったと記憶する。私は取材拒否をした行為を非難するつもりはない。反対派がいて、賛成派がいて、互いの主張をぶつけ合う。これこそが民主主義の根幹であり、互いにその権利だけは守らなければ、民主主義は成立しない。

 その報道を担う新聞社の姿勢が自分たちの主張と対立するからといって、取材を拒否することは民主主義そのものを否定することに直結する。なぜ、大学講師まで務めていながら、その重大性に気づかないのか?それが腹立たしかった。部数の多寡は、もちろん自分たちの主張を取り上げてもらうことを考えると、大きな要素である。その取材拒否の姿勢は民主主義における市民と新聞との距離とは?関係とは何?かを考えさせられる出来事だった。20数年前の体験だが、鹿児島に真の民主主義が県民に浸透していないことを物語る。現在報道に携わる記者諸君が、市民と新聞(マスコミ)の距離感を胸に手を当てて推し量ってみてはどうか?鹿児島に真の民主主義の精神が浸透していると思っているか?後世に残る記事・放送を胸を張って書いている・映している自信があるか?日々の取材活動に流されていないか(もちろん、コマーシャリズムは認める)?

 石橋は撤去されその後新しい橋がかかり、旧石橋は鹿児島市内に移築されその在りし日の姿を忍ばせる。行政による石橋撤去は正しかったのか?あれから約30年たつが、その考察は未だ県民レベルの賛成派・反対派から行われていない。私見を述べる。旧石橋撤去は今後に大水害を起こさないための都市整備の問題であり、鹿児島市が歴史を重んじて先人の石橋を残しつつ、長年都市計画を進めて石橋そのものの役割・存在を放置し続けた結果なのである

 その県都・足元に転がる問題に何も検証しない新聞・テレビはやはり〝地忘〟だ。たまに鹿児島市内に出かけると、あの朝夕の交通渋滞にはウンザリさせられる。一体どんな都市計画・整備をすれば、あの交通渋滞は解消されるのか?都市の中で生き続ける先人たちの遺物は、現在の私たちにその存在意義を問い続けている。

 では、散々旧石橋保存を訴え続けた新聞やテレビがなぜ、前述した論点を自分たちで検証しないのか?理由は簡単。振り上げた手を引っ込めてその結果(撤去・移築)につき紙面化・放送することは、自ら〝読者・視聴者のみなさん、私たちの主張は間違ってました〟なんて報道することと同義だからである。

 新聞・テレビの役割は行政の行為を追認することではない。私の在籍していたS社が、なぜ撤去賛成だったかというと、単純に財政難だったからである。行政が進める方針に異を唱えると、広告収入(行政からの)が減るのではと慮っての意思表明だった。後から某役員から聞いた実話。( ´艸`) 撤去賛成・反対の理由が読者離れ(行政も含む)を防ぐ安易な方向性を打ち出し、読者に迎合していたとすれば報道姿勢としては自殺行為である。一般読者はそんな内実は知る由もない。また旧石橋撤去問題が、現在に通底するとは思っていない。部数が多い新聞だから安心。紙面化される記事・主張すべてが正しい。断言する。過去・現在もそんなことは決してない。

 まずは記事を疑ってみる。ネットニュースだけがフェイクとは限らない。新聞記事の裏に何が潜むのか?事象だけを追いかけず、前提・現在・将来の見通しをもち、地をはいつくばる市民レベル目線の記事はどれか?そんな記事が多く掲載されることを望んでいる。鹿児島から地球市民を目指したい。

                   元ブンヤ