7月に入り、釣り人が港で竿を出して糸を垂れ、思い思いの釣りを楽しむのが厳しい時季です。最近、めっきり磯に上がり釣りをすることも少なくなりました。ひと昔前はハイシーズンともなれば、週末ごとに西に東に出かけて行ったものです。メーン魚種はクロ(メジナ)・チヌ(黒鯛)。ふかせ釣りです。
釣りを本格的に始めたのは30歳も半ばを過ぎたころ。仕事のストレスや家族問題等が絡んで病気になり入院。退院してから何もすることがなく、「釣りでもするか」と軽い気持ちで6月頃から始めました。釣りは小学生以来、竿すら持った記憶がないほど未経験。とりあえず近所の港で、何の知識もなくただウキを浮かべてえさのオキアミを針に付けて糸を垂らすだけ。最初はボーズの連続。9月頃だったか、隣にいた上級者と見受けられる釣り人の仕掛けをじっくり観察して、「タナ」があることを見つけました。
魚は各層で住む場所や行動範囲が違うことを学びます。つまり、魚種を絞り仕掛けを組み、撒き餌を選んだうえで的を射たえさを針に付ける。そして仕掛けを投入。もちろん、投入地点への「タナ」は事前に測っておく。ウキ止めの装着。釣り人が言う「さお一本」という長さは、竿(約5m)一本を指す。さお二本なら約10m。例えば、初心者に「タナはどれくらいですか?」と聞かれて、「さお一本半くらい」と返事したとしよう。ズバリ、タナは約7・5mということになる。
廉価な竿・リールを購入して、中途半端な知識と3カ月ほどの経験値でチヌ釣りに挑戦し始めました。10数年前の海は豊潤そのものでした。私のような素人にも優しく、チヌは素直に反応して、20数㎝のチヌが数釣り出来ました。鹿児島では30㎝未満のチヌを「メイタ」と呼ぶ。なぜ「メイタと呼ぶのか?」と周囲の釣り人に聞いても、明確な答えが返ってきたことはありません。
野次馬根性が豊富な鹿児島。周囲が釣れていて自分のみが釣れていない状況で、「眼科に行って治療してもらお」と嘆く。なんのこっちゃ!!「メイタ」=「目痛」をひっかけた自虐的ギャクなのです。眼科(目痛)に行けば、メイタに会える(釣れる)というわけです。幕末の巨魁・西郷どんも自虐ネタを好んでいたとか・・・。鹿児島ならではの遺伝子が釣りにも脈々と受け継がれているのか?でも、西郷どんは釣りが趣味ではなく、ウサギ狩り( ´艸`)でした。脱線。
閑話釣題。釣りは自然まかせとよく言われる。自然に逆らうのではなく釣り人が自然に寄り添い、自然体系を壊さず、共存できる釣り人が増えることを願う。釣りを始めるまでタバコを吸っていましたが、釣りを始めてからやめました。手持ち無沙汰になるのか、釣り人は喫煙者が多い。〝やめろ〟とは言いませんが、元喫煙者からみると〝百害あって一利なし〟です。
しかし、絶対に許せないことがあるのです。それは、吸殻を海に捨てる行為です。初心者の頃、堤防で釣りをしていたら、隣の男性高齢者が吸殻を海へポイ。「吸殻を回収してください。フィルターは自然に戻るまで時間がかかる」とお願いすると、その男性はこう反論してきたのです。「オレ一人の吸殻一つで、自然が壊れるはずもない。おまけに税金を国に払って貢献している」と取り付く島もない。実話です。またタバコの税金で貢献しているという主張も、間違っているのです(この問題は別の機会に紹介します)。
当時は海洋プラスチックごみ問題も、マイクロプラスチックごみ問題も表面化していなかった時代。釣り人の環境問題に対する意識も低く、吸殻ポイはもちろん堤防にごみを投棄して帰る釣り人も多かったのです。「広い海で、オレ一人ぐらいがマナー違反をしても自然を破壊することはない」というモラルの低い意識とその行為の積み重ねが、「昔の海は魚がよく釣れていた。今の海はまったく魚が釣れん」と無責任な発言を生む素地になっているのです。
喫煙者で釣り人の諸君、直言しよう。吸殻はごみとして持ち帰る。吸殻を海へポイ。その行為は自然に対する冒とくであり、釣り人としての資格はない。釣り場(堤防・磯)にごみを投棄する釣り人も同様。自然との出会い、魚との出会い、それは生命のバトンタッチ(今はコロナ禍・ひじタッチ)。人との出会いが【一期一会】なら、魚との出会いは【一魚一会】である。人間は自然に生かされている。
元ブンヤの釣り人