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釣りは安全第一

 さてさて、釣りブログは遠足or修学旅行にでも出かけていたのでしょうか?大分、ご無沙汰してスミマセン。🙇サボってました。それでも前回は釣り人的自虐ネタを盛り込んだら、やや??受けでした。2回目のタイトルは「釣りは安全第一」。私が死ぬかも?と思った体験を交えつつ、安全を無視した行動をとる釣り人への啓蒙・忠告です。

 前回も述べたのですが、釣りとは人間が自然と向き合うとともに逆らっては成立しない楽しみです。仕掛けをあれこれ考える楽しみ。初めて訪れる釣り場への釣行の前夜、「どんな釣り場か?デカいサイズが釣れるのか?」などと妄想を膨らませつつ寝床につく。釣り場や瀬渡し船発着の漁港までの車中で、勝手な現実と非現実を語り合う釣り仲間との他愛ない会話。沖磯なら瀬渡し船に乗りこみ、東の山の稜線から差し込む朝日のまぶしさを顔全面に受け止めつつ、波しぶきを切りながら潮風を浴びるあの高揚した気分。ヒップガードの奥がキュッと締まる。はやる気持ちを抑えきれない。

 釣りに関する中国のことわざを紹介します。

一時間、幸せになりたかったら酒を飲みなさい。

三時間、幸せになりたかったら結婚しなさい。

八日間、幸せになりたかったら豚を食べなさい。

永遠に、幸せになりたかったら釣りを覚えなさい。

・・・・・ン~ん。奥が深い。それほど、釣りはおもしろいのです。

 ようやく釣り場に着きました。そこは地域では名礁と呼ばれる爆釣必死の好釣り場。ボーズなど許されるはずもない。今回は「釣りは安全第一」の話のテーマです。沖磯では、ライフジャケット・磯ブーツ・ヒップガード・帽子・手袋・飲料水(意外に喉は渇く)・カイロ(冬は必需品)等が必要です。これらを装着・装備しなければ、釣りをする資格はない。沖磯に渡る釣り人は必ず自分で生命の安全を図り、瀬渡し船の船長は付近の海況を知り尽くしているので、〝危ない〟と判断したら即回収の手段を取ります。それほど、釣りは危険と隣り合わせなのです。

 安全を確保していればボーズでも、釣りを通して自然と対峙できる時間を共有できます。私の現場での最初の行動は帽子をとって一礼。釣り終えたら釣り場を清掃した後に一礼をします。私なりの自然への敬意の表れです。

 私が問題にしているのは堤防や地磯での釣り人の格好なのです。阿久根市には、徒歩30分でつく有名な地磯があります。仮にS鼻と呼びましょう。メジナ(クロ)のハイシーズンともなれば、市内外からメジナ釣り師が入り、好魚信をとらえて帰ります。3年前、「数があがっている」との情報を得て、私も早朝から先端を目指して現場に到着。ムム、一番の釣り座は軽装の若い男性釣り人4人が占拠していて大声で騒いでいる。ライフジャケットも装着せず、磯ブーツもはかずに釣りをしているのです。危険と言って過言ではありません。なぜなら、このS鼻は釣り人が一発波に巻きまれて帰らぬ人になった事故が多発するチョーデンジャラスな釣り場なのです。

 自己責任という言葉が堂々とまかり通っていますが、その時私はあえて注意しませんでした。注意したところで、何が彼らを変えるというのでしょうか?注意した私が悪者のように感じられ、釣りをナメンなよと自分自身で反省する機会をどこかで経験してほしいと思ったからです。

 閑話釣題。私が死ぬかも?と思った体験を紹介します。4年前、クロのシーズンも深まり、絶好期を迎えたある週末にS鼻への釣行を計画。前夜から準備して、あすの波の高さをチェックしたところ、1・5mで時間が過ぎるにつれ収まるとの予報でした。「よ~し、これなら波が収まるまで待ってじっくり釣りができる」と思い就寝しました。翌朝は快晴やや風あり(まさに日露戦争の日本海海戦で海軍参謀・秋山真之が発した名言〝本日天候晴朗なれど波高し〟通りの天気)。

 30分かけて現場に到着すると、磯場を覆うかのような大波が打ち寄せていました。「時間がたてば収まる」との予報を信じて、高台で磯場の海況をみながら撒き餌づくりと仕掛けづくりを始めました。

 粘る理由はほかにありました。ルアーマンが1人、私と同じように波が収まるのを待っていたのです。潮も下がり始め、波もやや穏やかになって、磯場を洗うことも少なくなりました。安全を確認しつつ、高台から磯場へバッカン(撒き餌で満タン)を降ろしました。さすがに先端に持っていくことは、危険すぎると思いやめました。他の道具を取りに高台に移動しようと海に背を向けた刹那、太ももほどの高さの波が私を襲ったのです。必死の思いで岩にしがみつき、事なきを得ました。しかし、バッカンは波にさらわれ、影も形もありません。もし、あのままバッカンの近くをウロウロしていたら・・・・波に飲み込まれ流されていたかもしれません。

 高台でこの光景を見ていたルアーマンはそそくさと帰り支度を始めました。私もズブ濡れのまま帰る準備を始めると、再び大きな波が押し寄せ、流されていったはずのバッカンが磯場に戻ってきたのです。波が引くのを待ってバッカンを回収。自然の脅威(驚異??)を思い知りました。磯場に限らず、釣り人は何度か危険な目に遭遇しています。堤防の波消しブロックの隙間に落ちそうになった、瀬渡し船の乗降で無理をして海に転落しそうになった、アイゴ(バリ)のトゲに刺され救急車で運ばれた等々、命の危険にさらされる状況は数知れずなのです。

 私が経験した前述のバッカン流され事件は、自然に逆らい釣りがしたいとの気持ちがはやった結果でした。現場に行って海況をじっくり観察すれば「即、撤収!!」の判断をすべきだったのです。自然ははっきりと教えてくれます。「きょうは釣りをやめたほうがイイよ」と。その無言の助言に抗い、釣りを強行しようとした私に自然は警告したのです。

 釣りは命の受け渡しだと前回書きました。「一魚一会」が私の信条です。針にえさをつけ、仕掛けを振り込み、糸を垂れ、ターゲットの魚を釣り上げる。自分の目標を達成したときのあの気持ちの高ぶり。魚信をとらえリールを巻き続け、魚が海面をわってきて「50センチは超えている」の確信をしてタモを入れる。この作業こそ釣りを通して魚と人間との生命のやりとりです。魚を持ち帰るのは必要最小限にとどめ、残りは針を飲み込んだり、えらを傷つけていない限りリリースします。持ち帰った魚は調理して、おいしく頂きます。ここで釣りは完結するのです。

 私はハッキリ言う。バス釣り(ブラックバスのこと)は釣りの楽しみではなく〝釣りのゲーム〟。バス釣り愛好家から反論が飛んできそうですが、ブラックバスは完全な外来種で日本固有の生態系を破壊している。もちろん、ブラックバスだけが外来種ではない。ゲームをするなら、管理釣り場等で楽しめばよい。わざわざブラックバスを放流?して、その河川・湖の生態系を壊してまで楽しむ釣りとは何ですか??それは人間のエゴとは言えないでしょうか。

 バス釣り愛好家らの「もう既にバスがいて、そのうえで釣りを楽しんでいる」との反論がきそうです。しかし、もともとブラックバスなどは北米地域の広大な河川・湖でゲームフィッシングとして楽しむものです。生態系の素地・構図などが全く異なる日本とでは、あまりにも全体像の幅と奥行きが違いすぎる。それを国土の狭い日本にあてはめ、スポーツ同様に扱うこと自体が釣りの概念をねじ曲げている。なぜ、ブラックバスが日本に入ってくることができたか?は後述する予定です。

 話がそれました。今回は「釣りは安全第一」でした。磯場に限らず、堤防釣りでも安全の重要性は変わりません。これから気温が下がれば、休日に家族連れでファミリーフィッシングを楽しめる時季になります。昨日、連休明けの早朝に近所の港(結構大きな漁港)を散歩しました。堤防にはサビキ釣りの仕掛けハリス、撒き餌のごみ袋、餌木の包装紙等々、手に抱えきれないほどのゴミが放置されていました(もちろん回収)。ゴミは持って帰って処分する。これが釣りのマナーであり、釣り人としての基本です。ゴミを捨てる釣り人は、釣りをする資格はない。

 言語道断!去れ!!と言いたいです。

 先日、ごみを持ち帰らない家族連れを港で発見。当然ように子供にライフジャケットを着せることもせず、ゴミを放置した挙げ句、私が「ごみは持ち帰ってください」とお願いすると、両親から「アンタに何の権利があって言っての?」と暴言を吐かれ逆ギレされる始末です。実話。悲しい限りです。しかし、これが日本の現実。この両親の行動は、子供の目にはどのように映ったでしょうか?

 首相を辞めた某政治家が首相就任時、「美しい国日本を再築する」と唱えていましたが、ごみを持ち帰らない日本人(ニッポン人)の心が・・・・道徳心が・・・・行動が・・・・美しくなるはずもないのです。オッと釣りから政治へと話がトンでしまいました。失礼しました。とにもかくにも、釣りは安全あってこそ楽しむべきものということです。+マナー。「一期一会」ならぬ「一魚一会」を求めて釣りをしたいものです。

 次回は「道具について」です。本格的に釣りにのめりこむなら、ジャンルにより道具は千差万別かつ値段にも差が存在します。ふかせ釣り(特にチヌ・クロ)に限定して、廉価でコストパフォーマンスの高い道具とは何かを解説します。決して、釣りメーカーの回し者ではありませんよ!?( ´艸`)

                        元ブンヤの釣り人