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元ブンヤのコラム④「別れもあれば出会いもある・その逆も真なり」

 元来の仕事(不動産業・行政書士業)の忙しさを理由にして、コラムを長い間休んでいた。少数派の読者に対して申し訳ない気分が優先しペンが遠のいていたが、久しぶりにコラムを書きたいと思わせる出来事があった。運命と因果はめぐるということを実感する体験をお伝えする。タイトルは「別れもあれば出会いもある・その逆も真なり」。これはある人物??のパクリ・・・。詳細は後述する。

 5月中旬、M新聞の市内版記者コラムに目を奪われた。コラムの質ではなく、その内容。筆者が在籍していた弱小紙・S社のW部長(コラムでは実名)の訃報だった。W部長こそこのコラムで再三登場する張本人。驚きながらコラムを読み進めていくと、W部長はS社廃刊後、私立高校の広報や全国紙の県外通信員を務め、退職してからは地方ライターとしてその動静を紹介していた。

 何よりも筆者はコラムに記されていた活躍を知っていた。自宅も知っていた。筆者の生活が落ち着いたら、必ず訪ねようと・・・。会わねばならない理由があった。そう思っていた矢先の悲報。記事掲載の翌日、予定の仕事をすべてキャンセルしてW部長の自宅へ弔問へ。W部長のパートナーには事前に訪問の連絡をせずに伺った。

 事情を説明して自宅に上がらせてもらった。仏前でにこやかに微笑み写真に収まるW部長。遺影は筆者が往時を知る姿そのままであった。手を合わせ目を閉じると、W部長と筆者が体験した約10年間の出来事一つひとつが走馬灯のように脳裏を駆け巡った。自然とまぶたの奥から滴が染み出すような感覚に襲われた。S社で部下だったこと、生前お世話になったこと、故人に迷惑をかけたことetc.etc.×2×5・・・。筆者は記憶の限り、ありとあらゆる出来事をしゃべり続けた。昼食を取ることも忘れて・・・。W部長は仕事のことを家庭に持ち込むことはなかったという。しかし、筆者にプライベートなことまで話していた事実を明かすと、W部長のパートナーは驚いた様子だった。

 6月下旬、49日法要に参列した。法要が始まる前、筆者が絶対的に頭の上がらない(なぜ、頭が上がらないかは割愛)人物に出会う。退社から22年ぶりの再会。S社での新人時代から退社までの約10年間、公私ともに懇意にしていたJ氏(廃刊時は編集局長)との邂逅(かいこう)である。

 J氏が49日法要に参列することは事前に分かっていた。20年以上の歳月が過ぎ、お互いに歳を取ったはず。筆者を覚えているだろうか?加えて筆者は廃刊前、それまで一緒に頑張ってきた同僚たちを見捨て、地方ジャーナリズムという戦場から自分勝手に逃げ出した、いわば脱走(遁走)兵である。再会したJ氏からはその当時の面影を残しつつ、しっかりと記者としての年輪を積み重ねてきた雰囲気が読み取れた。筆者が「私を覚えていますか?」とマスクを外すと、J氏は筆者を覚えていた。「岩崎君だね」。それが第一声だった。

 フワァと20数年ぶりに再会した二人の間に、二人にしか理解できない空気?空間?のような時間が流れて一瞬止まった。次の瞬間、手を取り合っていた。あいさつもそこそこに法要に参列して、改めてW部長(最終肩書は編集局次長)の冥福を祈りつつ別れを告げた。住職の読経を聴きながら目を閉じていたら、「オイ、岩崎!!よく来たな。お前、まだやり残したことがあるんじゃないのか?新人のころ、お前はオレに地方ジャーナリズム論について〝こうあるべき(内容は忘れた( ´艸`)〟と熱く語っていたじゃないか!?あの意気込みはどうなった?」と問いかけているような気がした。

 法要後、J氏と広告局に在籍していたK氏と三人でW部長との思い出話・昔話や事件、事故等往時の出来事の裏側や秘密を語り合った。J氏には、法要参列とは別の目的で会いに来たことを明かした。記者時代にすべてを分かったような気で取材していたテーマについて助言をもらうために・・・。J氏はS社廃刊後、全国紙の地方通信員を長く務め、現在は地方ライターとして健在。長い記者経験と幅広い人脈があるはずと思い、筆者の温めていた思いのたけをぶつけた。J氏はその趣旨を快く理解したうえで、適切な助言をもらった。互いの連絡先を交換。別れ際に、次は再会を祝して呑み会をすることで話がまとまった。

 数日後、J氏から返信メールあり。法要後の食事会の写真が、J氏のFacebookに載ったという。どんな反応があったかは聞いていない。メールの題名は「別れもあれば出会いもある・その逆も真なり」。前述のタイトルは、J氏からのパクリだ。

 W部長との別れがJ氏との再会を生んだ。まさにJ氏のいう通りである。ヒトはヒトとの出会いがなければヒトとして成長できない。若い20代前半、W部長との出会いがなければ、短い記者人生の根幹を形成することはできなかったに違いない。J氏との交わりがなければ、深い洞察力や人生経験を学ぶことはなかっただろう。振り返ると、社会人として組織人としての矜持を、この10年間で持つことができたと実感できる。

 廃刊後の元同僚たちの活躍は、紙面や放送などで知っていた。しかし、元同僚たちが新聞製作という戦場から逃げ出した筆者を許すはずもないと連絡を絶ってきた。とてもお世話になった別の上司・F氏(地方部長兼大学の先輩)の弔問にもいかずに・・・。なんて不義理な人間であることか!!

 閑話休題。マスコミに拾われることがなかった後輩記者M君の消息が気になり、J氏にM君の現在を聞いてみた。メール返信の内容を読むと、ある会社の常務取締役になっているという。すぐに会社に連絡。電話口から「岩崎さん!?お元気でしたか?みんな心配していました」と聞き覚えのある、少し上ずり加減の甲高い声が返ってきた。

 M君は筆者が在籍していた当時の思い出を語ってくれた。直接M君は関わっていないのだが、M君の同僚記者・P氏がよくM君に筆者との関わりを話していたという。筆者は、その出来事をすっかり忘れていた。1997年7月10日未明、筆者がいた支局管内で21人の犠牲者を出した土石流災害が起こった。筆者が支局から会社に第一報を入れた後、管内警察署の公衆電話(死語)から当時の編集局長の自宅に電話をかけ、「号外を出すべきだ!!」と迫った裏話をした(直後は興奮ハイ状態だった?・・・事実、号外が出た)。M君は号外が出たことすら忘れていた。

 返す刀でM君が「岩崎さん。今、M新聞で総局長をしているPさん(当時は駆け出し記者)が早朝、スーツと革靴で災害直後に現場に駆け付けたところ、岩崎さんが〝馬鹿野郎!!災害現場に革靴でくるヤツがいるか〟と激怒したって。Pさんは私と飲むたびに語っていましたよ」と。思い出した!!その詳細をM君に返答した。「M君、P君に確かにそう言った。実は続きがあるんだよ。(災害現場にスーツと革靴??オレは怒髪天に達していた!)。現場近くのミカン選果場の駐車場でP君に蹴りかなんかをかまそうとして、朝日新聞の記者に〝岩崎さん、暴力はいかん、暴力はいかん〟と止められたんだよ。取材に支障のない範囲で、P君にポロシャツとズボン貸したはず(サイズぜんぜんあっていなかったと思う)。アイツ、覚えているかなぁ」。M君は、電話の向こう側で大爆笑していた。

 M君とは近日中に酒を飲む約束をした。今度は筆者が恩返しする番。大いに昔話を語り、地方ジャーナリズムを論じ合い、S社とは鹿児島にとって何だったのか?廃刊までの45年の歴史をつむぎ、多くの社員らが弱小紙という存在で録(ろく)をはんだ。筆者は現在の立場で筆者なりにテーマをもち、これから社会へ貢献するという志を貫くつもりだ。

 「一期一会」。筆者のホームページのプロフィールに記載されている信条である。ヒトはヒトでしか進歩しない。進歩を怠る者は、ヒトを信じていない。「信は力なり」。これも大好きな言葉である。荒れた高校ラグビー部を数年で鍛え上げ、全国一にまで育て上げた監督(元日本代表/某テレビ局でドラマになった実話)が、生徒に機会あるたびに発する。「オレが生徒を信じなければ、生徒はオレを信じない」。アイツは絶対パスを放る、走りこんでくる、タックルをしてくれる、ミスをしても助けてくれる。〝one for all  all for one〟。仲間も信じるからこそ、生きていける。人生も同様であると信じて疑わない。

 これまで述べてきた邂逅を大切にしよう。それは亡きW部長への手向けでもある。M君待ってろよ!!まだ、まだ、人生やるべきことはたんまりと残されている。M君と同様にJ氏とも酒を飲む約束をした。また、筆者の短い記者人生の中で重要な役割と地位を占めた人物が複数いる。現在も鹿児島県内外のマスコミで現役としてバリバリ活躍中だ。機会があれば(本人の承諾も必要かな??(笑))、紹介したい。

 さ~て、何を肴(さかな)に元同僚らと気持ちよく酒を飲もうか?今から楽しみでもあり、少しの恐怖でもある。ホラーだ!〝ぎゃあぁ~〟暴露話の連発!?それとも幻の逆転サヨナラ満塁ホームラン級の特ダネの裏側!?。W部長が草葉の陰でS社の元後輩たちの活躍を見守っているはずである。重ねて合掌。〝泣こよか、ひっ飛べ〟

           元S社地方部北薩方面担当支局員  元ブンヤ(階級・三等兵)